なりたい自分と見せたい自分は多分少し違う

 25, 2016 23:53
今日は、用事を済ませてから、いつもの浜松町のお友達の仕事を手伝ってきました。
 
 
終わった後は、またもタイ料理やさん(笑)美味しい。タイ料理大好きです。(でも、パクチー食べられません)
 
 
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こんにちは。
 
珈琲豆・陶器・洋服
埼玉県熊谷市のセレクトショップ【Riyon】みわです。
 
 
 
その友達が言ってくれたんです。
 
「ムチャぶりだなぁと思いつつ任せちゃったんだけど、細かく指示しなくても、ちゃんとやってくれて嬉しい。ここまで終わると思わなかったから、気が楽になった」
って。
 
 
それを聞いて嬉しくなりました。だって、私が彼女の仕事を手伝う目的は、彼女を喜ばせたいから。彼女がいつもこなせない量の仕事に「わー」ってなっているのを知っているから。
 
 
私にも自分の仕事があるので、しょっちゅうは行けないけど、たまに行って少しでも入力ができれば、いくらか楽になるんじゃないかなって、疲れた笑顔を見ると思うんです。
 
 
でも、喜ばせたいだけではなくて、友人としてこんな気持ちもあります。
「頼りになる」って思われたいって。
 
 
 
 
 
 
あるとき、お友達のウチコさんが言いました。
 
 
「こう思われたい自分を20個書いてみなよ」
と。
 
 
それを聞いて私は思いました。
改まって考えることはないけれども、常日頃、「(自分が)こうならいいのに」とは漠然と思っているなぁと。
 
 
 
 
そう考えると、たとえば「誰々に似ている」と言われたときに、似ているか似ていないかを判断する材料は、顔ではなくてその人の持っているものであることに気付きました。
 
 
たとえば私は、数人の人に、あるアニメのキャラクターに似ていると言われたことがあります。
でも私からしたら見た目も似ていないのですが、中身が全然違います。だから否定します。(あくまでアニメのキャラクターなので、そこまで否定する必要もないんですけどね(笑))
 
 
でも「似ている」と言った人は、そこまで深く考えて言っているわけではなくて、単純にそのときの雰囲気や見た目で、感じたことを口に出しているだけです。
 
 
にもかかわらず、自分はそこまで到達していない!と判断したんですね(まじめか)。
 
 
それは少なからず、自分がどう見られているのかを、意識していることを意味します。
 
 
 
 
他者からの目ばかりを気にして、自分らしさが失われるのはどうかと思います。
しかしながら、「どう見られたいか」が自分の思う、自分の理想像へとおしあげるための努力に結びつくなら、それはとてもいいことだと思うのです。
 
 
 
優しいと思われたい人が、「優しく見られる努力」をするのではなくて、「優しくなるための努力」をするのなら、それは格好悪いことではなく、むしろいいことですよね。
 
 
 
 
 
 
 
 
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