正岡子規のこと
- 2023/05/10
- 23:59
お店のエゴノキは、あっという間に満開になり、そしてあっという間に散ってゆきます。

学生時代、国語のテストのために、作家や歌人、俳人たちの名前や代表作を覚えました。
結果的に知っているような気がしていたけれど、知らないことの多いこと。
いったい何をした人なのか、どんな人だったのか、その作品はどんな内容なのか、どんな文体を使っているのか、どんな描写が多いのか。
私は夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んでいません。
ペ・ヨンジュン主演の「冬のソナタ」も観ていません。
みんなが当たり前に通ってきていることを、私は知りません。
よって、正岡子規についても、教科書の知識以上のものはありません。
いつだったか、目に留まった正岡子規の特集。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
この誰もが知る俳句を作った人が、いったいどんな生涯だったのか。駆け足でしたが、知ることができました。
正岡子規は尾崎紅葉、高浜虚子、森鴎外など、多くの小説家や俳人達と親交があり、中でも、東京大学予備門の同級生でもあった夏目漱石とは親友関係でした。
「卯の花をめがけてきたか時鳥」
正岡子規の「子規」これはホトトギスですが、子規は結核を患い、喀血して口の中が血で染まるため、
口の中が赤いホトトギスと重ね合わせて、そのように名乗ったのだそうです。
「五月雨をあつめて早し最上川」
これはご存知、松尾芭蕉の有名な句です。
「五月雨や大河を前に家二軒」
こちらは与謝蕪村。
この2句を比較し、蕪村の方が優れているとしました。
確かに、まるで目の前にその光景が広がっているかのようですし、なんなら音まで聴こえてくる気がします。その家に住む人々まで、想像させる句です。
また、子規は、知人への手紙にこう記しています。
「家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景を見給へ。実景は自ら句になりて、而(しか)も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其(その)時直(すぐ)に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の暁(ぎょう)靄(あい)、荒村の末枯(うらがれ)、頽籬(たいり)の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須(すべから)く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨(へいげい)せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其(その)快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。」
机上ではなく、外に出よといっています。
明治34年(1901年)、子規の病状が悪化。このとき34歳。
この頃、ロンドンにいる漱石に手紙を書いています。
「僕はもうダメになってしまった…。君に再会することはできないと思う。」
しかし漱石もこの頃、神経衰弱を患い、手紙を書く余裕もなかったといいます。
1年後、子規は息を引き取りました。
漱石はその翌年に帰国しましたが、神経衰弱が完治することはありませんでした。
そんな漱石に、子規の弟子の高浜虚子が声をかけます。
「気分転換に小説でも書いてみませんか」
それで誕生したのが、「吾輩は猫である」。
ちなみにペンネームの夏目「漱石」は、子規の考えたものだったそうです。
お洋服と和のうつわと珈琲豆のセレクトショップ
Riyon
埼玉県熊谷市別府5-80-3
TEL : 048-533-9533
営業時間 :11時~18時
おやすみ:日/月曜/祝日

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結果的に知っているような気がしていたけれど、知らないことの多いこと。
いったい何をした人なのか、どんな人だったのか、その作品はどんな内容なのか、どんな文体を使っているのか、どんな描写が多いのか。
私は夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んでいません。
ペ・ヨンジュン主演の「冬のソナタ」も観ていません。
みんなが当たり前に通ってきていることを、私は知りません。
よって、正岡子規についても、教科書の知識以上のものはありません。
いつだったか、目に留まった正岡子規の特集。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
この誰もが知る俳句を作った人が、いったいどんな生涯だったのか。駆け足でしたが、知ることができました。
正岡子規は尾崎紅葉、高浜虚子、森鴎外など、多くの小説家や俳人達と親交があり、中でも、東京大学予備門の同級生でもあった夏目漱石とは親友関係でした。
「卯の花をめがけてきたか時鳥」
正岡子規の「子規」これはホトトギスですが、子規は結核を患い、喀血して口の中が血で染まるため、
口の中が赤いホトトギスと重ね合わせて、そのように名乗ったのだそうです。
「五月雨をあつめて早し最上川」
これはご存知、松尾芭蕉の有名な句です。
「五月雨や大河を前に家二軒」
こちらは与謝蕪村。
この2句を比較し、蕪村の方が優れているとしました。
確かに、まるで目の前にその光景が広がっているかのようですし、なんなら音まで聴こえてくる気がします。その家に住む人々まで、想像させる句です。
また、子規は、知人への手紙にこう記しています。
「家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景を見給へ。実景は自ら句になりて、而(しか)も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其(その)時直(すぐ)に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の暁(ぎょう)靄(あい)、荒村の末枯(うらがれ)、頽籬(たいり)の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須(すべから)く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨(へいげい)せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其(その)快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。」
机上ではなく、外に出よといっています。
明治34年(1901年)、子規の病状が悪化。このとき34歳。
この頃、ロンドンにいる漱石に手紙を書いています。
「僕はもうダメになってしまった…。君に再会することはできないと思う。」
しかし漱石もこの頃、神経衰弱を患い、手紙を書く余裕もなかったといいます。
1年後、子規は息を引き取りました。
漱石はその翌年に帰国しましたが、神経衰弱が完治することはありませんでした。
そんな漱石に、子規の弟子の高浜虚子が声をかけます。
「気分転換に小説でも書いてみませんか」
それで誕生したのが、「吾輩は猫である」。
ちなみにペンネームの夏目「漱石」は、子規の考えたものだったそうです。
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