桜は散りはじめたけれど
- 2023/03/31
- 22:20

毎年楽しみにしている、世良田東照宮の桜を見に行きました。
この門と、葵の御紋の向こうに見える拝殿と桜の姿が好きです。

私はいつも車で行きますが、馬で行かれる方はこちらへつないでおくこともできます。

今年はこの桜が満開になる姿を見ることはできませんでした。桜はなぜこんなにも散るのが早いのでしょうか。寂しいですね。でもこれもまた、風情があっていいものです。
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
花は満開のときだけを、月は雲ひとつかかっていないものだけを見るものであろうか。いや、そんなことはない。
雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
降っている雨に向かって、見えない月を恋しく思い、簾を垂らした部屋に籠もり、春が過ぎてゆくのを知らずにいるのも、しみじみと、趣が深い。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。
今にも花開きそうな桜の梢や、花びらが散った庭なども、見どころが多い。

歌の詞書にも
『花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。』
とも、
『さはることありて、まからで』
なども書けるは、
歌の詞書(ことばがき)も
「花見に出かけたところ、すでに花が散ってしまっていた」とか、「用があって花見に行けなかった」などと書いてあることが
「花を見て。」
と言へるに劣れることかは。
華麗な桜を詠んだ歌に劣っているかというと、決してそうではない。
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、
「この枝、かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」
などは言ふめる。
よろづのことも、初め終はりこそをかしけれ。
花が散り、月が沈もうとしていくのを惜しむのは、もっともなことではあるが、情趣を理解しない人は、
「この枝も、あの枝も散ってしまった。もう見る価値がない。」
などと言う。
どんなことも、初めと終わりこそ、趣が深いものである。
(吉田兼好「徒然草」より)

手水舎に浮かぶ花びらもまた美しい。
満開の桜は見事で、華やかなものですが、何を見ようとするかでどんなときも美しいものです。
すべてのことに言えることですが、完璧だけが素晴らしいわけではないから。
感じ取る心が散らない限り、これから咲く桜も、満開の桜も、地面を覆う花びらも、すべて心を潤してくれます。